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第8回「バックボーン」 若和尚:テナー 2004/02/03
夕日に焼ける学舎の合間を縫って、狭い中庭をトボトボ歩きながら、大学院に来て丸3年、論文を書かずにいったい何をしていたのかと反省に心が沈み、気分を換えようとクラブに後輩を訪ね、彼等の青臭い息遣いを感じ、ふと自分のその頃を顧みて、またしても物思いに耽る…。
そして、同時に現在合唱への取り組む姿勢は?と、問いたださずにはいられなくなってしまう。冴えない出だしで恐縮だが、今回は日頃心にうつりゆくよしなしごとをそこはかとなく書きつくろうと思う。文章は精彩を欠くが、読者には、しばし筆者の述懐と思索に付き合わされることを許されたい。
大学を出発点に合唱を始めた私にとって、やはり学生時代に出会った事柄がその後の行動や思索の背骨になっているのかなと思う。そんなことの中から一つをテーマにして。
私を育んでくれた佛教大学混声合唱団(以下佛混と略す)の歴史は長く、大学の行事や母胎である宗派の本山との結びつきも濃い。特別な位置付けこそないものの、祖師方を讃仰し宗門の興隆を詠う曲、いわゆる「仏教讃歌」の研究に取り組む特色がある。しかし学生のやりたい合唱活動も充分をやらせてもらっているので、一般の合唱曲や今日ではキリスト教音楽についてもテキストとして取り上げている。
仏教讃歌は、現在でも使用されているとはいえ、創作の多くは昭和中頃のものであって、音使いもその頃を感じさせるもので、歌詞の言葉使いは古めかしいことに加えて、仏教用語が頻出するために意味の理解に苦しむことが多い。
学生団員の多くは、それらを法要等の演奏に迫られて義務として歌うか、伝統の名のもとに仕方なく取り組むというのが隠し切れない本音ではある。
僧侶資格の取得課程にあった私にとっては、それらも勉強であり意欲的に捉えたが、如何せん、合唱の形態はモチーフにとって所詮借り物、逆に音楽の面から見ればやはり退屈であったのが正直な感想である。
かく云うと、いかにも仏教讃歌はつまらないもののような印象を与えてしまうが、決してそうではない。法要を音楽の演奏という形で表現しようとする工夫や苦心の跡がありありと感じられるし、釈尊や祖師たちの生き様を瑞々しく表現仕切っているものもある。モチーフとされる詩文も素晴らしい信仰世界を表現したもの、素朴な心情を詠い尽くしたものあり、それを音の世界に見事に反映した作品あり。触れる者をして、自ずと深奥な精神世界に誘い、向かわしめる。
かつて異国の言語で書かれた聖書を母国語で解釈し直したキリスト教者の労苦と同じく、西洋音楽を援用して仏教を現代の音の世界に具現化しようとする営みは尊いものと言える。
今書きたいことの軌道からはだいぶ外れた。テーマを率直に提示すると、「音楽の背景を誠実な心で接しながら探すことの大切さ」。稚拙な表現者であったとしても、持つべき姿勢について、もの思うのである。
親戚や知己に佛教大学に通うと言うと、必ず「坊さんになるのか?」と冷やかされて辟易とする学生の大半は専門を異にしており、仏教を専門にする学科内でも、僧侶資格を獲る者は30%に過ぎず、ましてや学生全体の中では5%ほどになろう。
信仰ということからしても、仏教は家の宗教であって、自分には関係ないという無恥で無知な学徒が大半であろう。だからと言ってまさか、仏教讃歌を歌うには信仰に目覚めろとか、勉強はするべきだなどと言ったりはしない。
しかし、当たり前のことであるが、その歌と真摯な姿勢で向かい合うことは大事だと言いたい。またその歌が宗教曲であれ、世俗曲であれ、何であれ、詞と曲の背景を尋ねる問い掛けが重要であることは言うまでもないし、いったい、音楽に限らずすべての芸術は、そのものにおいて存在価値は認められない。絶えず宗教を表現する中で発展してきたのであるから、表現の技術を研くだけでは迫れない人間の内面性の深さと味わいがある。
しかしまた逆に音楽の立場から言って、いかに純粋で誠実な信心をもってしても、ズブの素人には簡単に手出しできない技術の高みがあって、結局いずれが大事かの論議は戯言にしか過ぎない。
どうも話が脱線して仕方ないが、テーマに戻る。日頃の自分の意識が「表面的にまず問題になる音の世界≠フみに捕らわれていないか」という反省を促す警笛が胸の中に響く。
最近私は、パートリーダーだからというだけではなく、自分の姿勢として余暇が許す限り、曲について歌詞に込められた歴史的な背景を探りたいと思っている。毎回の作業や皆に配るプリントは粗末で赤面の至りだが…。
それと、合唱を通じて「僧侶として生きて行く自分の資質を高めたい」という願いや、本場の宗教音楽に触れることでいつか「仏教音楽の今日にフィードバックさせたい」という浅はかな野心を持っている私にとって、今の合唱活動は単なる楽しみではなく、「学問」であることを姿勢として失いたくない。
無論シェンヌは宗教を目的にした活動ではないし、私が自分の課題として持っているだけのことである。しかし、シェンヌが数多く宗教曲に取り組む中で、慎重に慎重をもって、やはり音楽の真髄にある精神性に触れていこうとする上西先生の問い掛けや指導は感じて余りある。私が本当に先生を尊敬できる理由はそこにある。
蛇足として(?)。我が後輩たちの日々精進せるや否や。仏教讃歌であれ、キリスト教音楽であれ、その世界を尋ねて自分の問題にまで還元してくることを忘れないでほしいと願う。
祈りの音楽であることの共通点を見出すならば、いずれも意欲的に取り組めるはず。表面的な美しさに心を奪われて、人間と音楽の本当の深みを見つめる努力を忘れないでほしい。
ましてや仏教系大学の合唱団が、異教の曲を取り上げることのタブーを破ってまで、合唱団としての成長を願って、学ぶ者の意志を盾にそれらを持ち込んだ私と私の敬愛する友人である当時の学生指揮者の心情と信条を辱めないでほしいと祈る。
そして願わくは、「僧侶なのにキリスト教音楽に携わっていいのか」という、その問を発する人自身が自分の問題を傍らにした空虚な議論を私に投げかけないでほしい。
言われるまでもなく、それだけのことを自責しつつ敢えて取り組んでいるのだから。